歴史

創業四五〇年 ~染の系譜~

千切屋一門の創業は、室町時代後期、弘治元年(一五五五年)初代与三右衞門貞喜が京都室町三条の地で、 金襴袈裟法衣等の裂地仕立販売業を家業としたことに始まります。 西村家の祖先は、藤原氏(藤原淡海公)の末裔にあたり、宮大工として奈良の都で朝廷に仕え、 春日大社の祭典には「千切花」と呼ばれる供花の奉納を慣例とする家柄でした。 その後、平安遷都の際 御所造営を命じられ、桓武天皇に従い京都に移り住んだと伝えられています。 やがて戦乱の世となり、江州甲賀郡西村に一時難を逃れますが、再び京に戻り、 大乱から復興しつつあった京の都で法衣商を始めます。 現在も一門各社が隆盛する室町三条は、当時 再興の気運にのる法華各寺院をはじめ、 周辺には大寺院が多く法衣業を営むのには最適な場所でした。 こうして千切屋一門の礎が築かれていきました。 中興の祖 貞喜没後も、衣棚町一帯においては一族郎党が多くの分業を営みさらには別家を輩出し、 やがて千切紋の暖簾を連ねました。当時この界隈は「百千切」と呼ばれ一大盛観を呈しておりました。 創業からおよそ一三〇年後の江戸中期、京都の扇絵師・宮崎友禅斎によって、 それまでの染にはなかった絵画的で多彩な図柄をほどこした友禅染めが登場し、元禄の衣裳風俗に大流行します。 当時呉服商として家業を営んでいた当家は、御所や宮家の御用を賜り、京友禅の創作にたずさわります。 その後は家訓の教えを守り、染の匠としてひたすら家業に精進し、四五〇年の歴史に培われた信頼の暖簾を 引き継いでまいりました。

千切屋治兵衞

「千切花台」の紋

「千切花台」の紋

千切屋一門の家紋は、もともと宮大工だった祖先が、奈良の春日大社で神前に供える 「千切花台」を奉納していたことから、これを意匠化して家紋にしたとされており、 初代がこの紋を暖簾に染め抜き、屋号を千切屋と称しました。 千切花台は千切花を載せるための台で、三方をつないだようなものと想像されます。 千切花台の図柄を織り出して額に入れたものが残っていますが、現在春日大社では そういうしきたりが残っていないことから、これは明治以降のもので、おそらく後世 言い伝えによって描かれたと思われます。 また、三方の図柄の中に配された橘は、古来不老長寿の霊力があると言い伝えられ、 その実は一年中落ちず花と実が同時にあるもので吉祥の果実とされています。